1970年前後の佐藤栄作政権下の自民党内はまだ親台派が多数を占めていたが、政権反対派で最も厳しく政権批判をしていた三木武夫は「北京政府を中国を代表する正統政府として認めて正常化交渉をすべし」との親中派の急先鋒だった。また通産官僚だった高碕達之助や宏池会大平正芳も経済交流を進める親中派と目されていた。そんな中で佐藤栄作の後継争いで福田赳夫と田中角栄が激しく対立。結局、田中は佐藤派の3分の2を握り総裁選に臨んだ。この時、田中156票、福田150票、大平101票、三木69票、田中と福田の決選投票となり田中282、福田190で田中が佐藤の後継となった。この時、田中は中曽根に7億円、三木には日中国交交渉を約したと言われている。つまり最大の過ち「日中国交正常化」は田中角栄のオリジナルではなく、三木武夫、大平正芳らのコテコテ親中派を取り込んで総裁になった妥協の産物だった。よもや岸田新首相が中国融和策を取るとは思わないが宏池会は親中派が多いからチト心配も残る。
10月 08
2021
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