むかし企画してボツになった話が突然夢に出てきた。何かの啓示かも知れないから、当時を思い出しながら趣意再現すると・・・
家老の情報戦争 〜河井継之助vs溝口伊織〜
江戸末期、長岡藩牧野家は徳川17将として名をはせた譜代大名。方や新発田藩溝口家は地方の与力大名として新発田に移封されてきた外様大名だからもともとチカラ関係には大きな差があった。
新潟は幕府直轄領だから信濃川河口の「新潟港」は長岡藩が管理し、阿賀野川河口の「沼垂港」は新発田藩の領地にあった。開明的だった新発田藩は沼垂港の改修により海運通商による藩政立て直しを図った。しかし隣接する新潟港はもともと信濃川から大量の砂が流れ込み大型船の入港は出来ない、そこに阿賀野川河口の改修工事でさらに大量の砂が流れ込むことを危惧した長岡藩は大反対をして工事中止に追い込んだ。長岡藩と新発田藩の長い因縁はここから始まる。
1868年、薩摩と長州の新政府軍は京都近郊、鳥羽伏見の戦いで勝利し、勢いに乗って北陸道を下って奥羽列藩同盟せん滅のため東進した。初めはこの同盟にしぶしぶ加わっていた新発田藩だが外様大名だから幕府には睨まれている。だから若い藩士を全国各地に送って広く情報を集め、政情把握に努めていた。当然、各地に散らばった藩士からは新政府時代を予見する情報が集まる。そこで家老溝口伊織は沼垂港を官軍に解放して上陸の手引きをした。これにより激しい北越戦争が起こり長岡藩士は甚大な被害を出して会津へ奔走。長岡藩から見れば、この敗戦はひとえに新発田藩の裏切りが原因であると。これが今に続く「新発田に嫁をやるな」の由来となる。
しかしよくよく考えれば、新発田藩は領内を戦火から救ったのであり、長岡藩とても、藩を上げて佐幕の方針であったわけではない。世襲筆頭家老ほか多くの家臣は早くから政府軍への恭順を主張していた。だから河井継之助が恭順派を幽閉してまで開戦したことに批判の声は当時からあった。今でいう情報戦(インテリジェンス)に勝ったのが新発田藩であり、頑固一徹、時代に取り残され荒廃を招いたのが長岡藩であったとも云えるのだ。